“自分”を知る

たぶん生活に破綻を来さない程度の知的障害があります。

道徳と信心について少々〜卒業の日に〜

久方ぶりに更新します。

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卒業式、保護者から教職員全員にこんな素敵な手作りプレゼント。

私までいただけるなんて…感涙。

 

先日、職場の卒業式に参列してきました。

新型コロナウイルスの影響で在校生が参列しない縮小形式となってしまいましたが、無事6年生の門出を祝うお式が出来て、良かったです。

私は今年度からこの職場に入り、6年生の事は知りません。それでも、お父さんお母さん、先生達の感慨が伝わってきて、泣いてしまいました。

 

小学校の6年間というのは最も子供の成長が見られる期間です。

赤ちゃんがやっと子供になった状態から、大人の入り口に立つところまでが小学校の6年間と思ってます。

ご両親はもちろん、6年間の成長を見守ってきた先生達(私立なので基本移動がありません)はどんな気持ちだろうと考えるだけで、泣けてしまいます。

昨年の4月に初めて出会った子供達の卒業までは見届けたい、と願った卒業式でもありました。

 


日本の春は別れと出会いの季節です。

今年は苦難の春を迎えておりますが、子供達の幸ある未来を祈っています。

 

 

行事の日は、他の先生との情報交換の機会にもなります。

音楽講師の先生達はそれぞれ出勤曜日が違うので、こういった行事の時でもないと準備室で全員一緒になる事がありません。

卒業式の日に、道徳と信心について少し考えさせられるお話をしたので書き留めておきます。

 


私はクリスチャンではないですが、他の先生は全員敬虔なクリスチャンです。

ふとした事から、クリスチャンである事のプレッシャーという話に。

ご主人はクリスチャンではないという先生が、

「自分の行動一つで、クリスチャンの人間はこんな事を言い、こういう行動を取るのか、と思われるんだ、というプレッシャーが常にある」

と話していました。

まさに同じ内容の話しを先月、私が教えるクラスの担任の先生が子供達に話していました。

〝自分達の行動の一つ一つが神様の教えを学ぶ者の鏡である〟

つまり、自分の行動は自分一人のものではない、責任を持て、という意味なのだけど。

その話しを先生達にしたら、小さな子達はどこまで理解できるだろう、という話で盛り上がりました。

確かに(笑)

でも、普通の学校でいう道徳の教えを、信心を持って教えているという事なのですが、私個人としては、悪い事ではないな、と思いました。

道徳という漠然としたものよりも、彼らには神様の教えという、言い方は悪いかもですが〝大義名分〟がある。

大人になって、その〝教え〟に疑問を持つのも悪い事ではないと思います。

ただ、人格形成の第一段階に於いて〝良き行いをせよ〟という基本理念を心に染み込ませるのは大事な事かな、と。

それを、親だけではない教会という一つのコミュニティーの中で育んでいくんですね。

そこから、自らの行動一つ一つが喜びも悲しみも怒りも生む事に気付いていく。

今、巷を騒がす軽はずみな行動をしない大人を育てていく事に繋がっていきそうです。


子供を育てていく上で、道徳の柱は信心の柱と背中合わせなんですね。

 

全ての子供は宝です。我が子に限らず、子供の心が健やかに育まれる社会となりますように。